努力と知性で頂点へ登り詰めたストライカー、ミロスラフ・クローゼ

ドイツサッカーで最も偉大なストライカーは議論の余地なくゲルト・ミュラーである。ドイツ代表として62試合に出場し68得点、FCバイエルンで530試合で484得点を記録している。この驚異的な得点率はドイツでは他の追随を許さず、獲得タイトルの数から言ってもドイツで最も偉大な選手の一人に数えられるのは間違いない。残念ながら世代が異なる為、私はこの選手のプレーを生で見る事は出来なかった。

しかし、おそらくこのゲルト・ミュラー以降ドイツで最も偉大だと思われるストライカーのキャリアを私はほぼ最初から最後まで見届ける事ができた。それはミロスラフ・クローゼである。これはあくまで私の個人的な意見なので、違うと思われる方もいるだろう。

確かに、私が見た中でもクリンスマンやフェラーの1990年W杯優勝コンビ、或いはそれ以前でもルンメニゲ、或いはフリッツ・ヴァルターやウーヴェ・ゼーラーは言うまでもなくドイツの偉大なレジェンドだ。そしておそらく、クローゼのストライカーとしての才能はこれらのレジェンドに及ばない。少なくとも私には当初クローゼは代表選手としては凡庸に見えた。おそらく同様の見方をしていた人は多かった筈だ。

クローゼはこのような周囲の低評価を自らの知力と努力で覆し、最終的にはドイツ代表137キャップ71得点、更にはW杯通算得点記録1位という金字塔を打ち立てた。目立たないながら、その地道な努力で頂点に立った選手として非常に思い入れのある選手でもあり、是非記事を残しておきたい。ちょうど最近、”Miroslav Klose – eine unglaubliche Karierre” という番組を見たのもあり、そのキャリアを振り返ってみたい。

まず、クローゼの名前が世界に知れ渡ったのは2002年の日韓W杯であろう。この時クローゼはまさに彗星の如く現れた印象がある選手だった。それもそのはずで、クローゼは国際的には全くの無名の選手であり、過去に年齢別の代表チームにも一切招集されていない。クローゼは幼少期から選抜チームという類のものに招集されておらず、最初の選抜チームがドイツ代表Aチームだった。

それどころか1998年の20歳の時点でクローゼはなんとまだ7部リーグでプレーしており、この歳でようやく3部リーグのチームに移籍。翌年にブンデスリーガ1部のFCカイザースラウテルンのアマチュアチームに移籍した。これも実は当時のカイザースラウテルンのアマチュアチームの監督が別の選手を視察しに来たところ、偶然クローゼが目に留まり獲得に至ったもので、まさにドイツ国内の地方でも無名の存在だったと言える。

ポーランドで生まれ、8歳でドイツに移住したクローゼはプロサッカー選手になるという意思を子供の頃から持っていたようだが、当時ある監督はクローゼに対し、プロになる事は諦めて一般の職業を学んでおくべきだと窘めたそうだ。実際にクローゼはドイツ語で”Zimmermann”=「大工」の職業教育を受けている。

2000年の4月にはブンデスリーガにデビューし、その1年後にはドイツ代表に招集され一気にステップアップしたが、クローゼはそれまで長い間その能力は埋もれたままで雌伏の時を過ごしてきたと言う事だ。

その無名のクローゼは前述した2002年日韓W杯グループリーグだけで5得点を挙げ、一躍国際的に名を馳せた。その得点は全てヘディングによるものだった。しかし、クローゼはその驚異的な跳躍からのヘディング、スピードに関しては高い評価を得たものの、それ以外の技術は凡庸と言って良いもので、特徴を掴まれた決勝Tでは完全に抑え込まれた。世界の一流選手相手にはまだその実力は遠く及ばない印象だった。

そしてその後2年間クローゼはやや伸び悩む。所属するカイザースラウテルンも低迷し、ドイツ代表でもEURO2004ではクラニィにエースの座を奪われた。この時のクローゼの序列はベテランで代表に復帰したボビッチよりも下の3番手だった。

この頃のドイツは依然として低迷期の中にあり、その中でもFWは特に人材難と言われていた。最終的にドイツは3試合で2得点、FWの得点はゼロという壊滅的な攻撃力の低さでグループリーグで敗退する。当時の得点源は専ら中盤のバラックであり、FWは存在しないも同然と言える程そのレベルは低かった。