ペア・メルテザッカーは言わずとしれたドイツ低迷期から復活期にかけての名DFである事に疑いの余地はない。クラブではドイツで通算291試合に出場し、2011年に移籍したイングランドの名門アーセナルではキャプテンを務めるにまで至った。ドイツ代表では2004年から2014年まで合計104キャップを記録し、W杯も制している。文句なしのドイツのレジェンドの一人に数えられるだろう。
しかし、このメルテザッカーの何が優れていたかと言えば、今ひとつピンとこないファンも多いのではないか。確かに198cmの長身で空中戦は強かったが、ヒョロっとした体格で、足は遅い。テクニックに優れていた訳でもなく、後方から特別優れた攻撃センスを発揮した訳でもない。単にサッカーの技術、アスリートの能力から言えば、特別な強さを持った選手ではなかった。
では、このメルテザッカーの何が優れていたかと言えば、一言で言えばその知性だと言える。事前に相手の攻撃を予測し、優れたポジショニングで常に相手の一歩先を行く。自らに不利なスピード勝負や1対1の状況を作らせず、味方と連携しながら、労せずして相手の攻撃を防ぐ事に非常に長けた選手だった。
それでいて、メルテザッカーの仕事は堅実であり、凡ミスが極めて少ない選手でもあった。相手の攻撃を淡々と防ぎ、ボールを奪えば難しい事はせず、確実に前方の味方へビルドアップのパスを出す。常に冷静かつ非常に集中力に優れた選手でもあった。
メルテザッカーはこのような地味なプレースタイルに加えて、基本的にセットプレー以外は攻撃にも参加しないので、全く試合では目立たない。しかし、この冷静かつクレバーなプレースタイルこそが、当初はそれ程注目されていなかったメルテザッカーの大選手としてのキャリアを開いたと言っても過言ではないだろう。
というのも、メルテザッカーが台頭してきた時期、つまりEURO2004で惨敗したドイツはサッカーの戦術面で大きな変革を迫られていた。このうちの重要なポイントに守備システムの変革が挙げられる。それまでのドイツでは基本的にマンマークの守備が基本であり、相手FWを追いかけ回し、激しいタックルでボールを奪う1対1に強いストッパータイプのDFが養成されてきた。確かに多くのチームがリベロを排した4バックを採用しつつはあったが、マンマーク重視の守備が本質的に覆されてはいなかった。
しかし、新しくドイツ代表の監督に就任したユルゲン・クリンスマンとそのアシスタント、ヨアヒム・レーヴはこのドイツ伝統のスタイルを真っ向から否定し、劇的な改革に着手した。1対1で強みを発揮する屈強なタイプよりも、ポジショニングに優れスマートにボールを奪い、即座に攻撃への切り替えを実現する新たなタイプのDFをドイツは必要としたのである。ここで抜擢されたのが、当時若干20歳のメルテザッカーだった。
そしてこれ以降、メルテザッカーは順調に成長しドイツ代表で欠かせない戦力として定着する事になる。クラブは2006年にハノーファー96から当時チャンピオンズリーグ常連のブレーメンへ、27歳となった2011年にイングランドの名門、アーセナルに移籍した。地に足を付けた、堅実かつ順調なステップアップを実現したと言える。
一方でドイツ代表ではここからフンメルス、バドシュトゥバーと言う若手が台頭し、メルテザッカーはEURO2012ではスタメンの座を明け渡す事になった。両者ともメルテザッカー同様、読みで勝負するであるタイプである事に加え、類まれなパスセンス、攻撃センスを持ったセンターバックだったからだ。確かに両者の才能はメルテザッカーを凌駕していたと言える。
しかし、この大会の準決勝イタリア戦でこの両者は脆くも経験不足を曝け出し、カッサーノ、バロテッリの2トップに完全に翻弄された。結果ドイツは戦前圧倒的有利が囁かれながら、予想外の惨敗を喫する事になる。結果論になるが、経験豊富なメルテザッカーであれば、安易に攻撃に色気を出さず、より注意深く、集中して対応した筈だ。個人的にも非常に惜しまれる敗戦として記憶に残っている。
続くビッグトーナメントである2014年のブラジルW杯、ドイツ代表はバドシュトゥバーを長期間負傷で欠いていた為、再びメルテザッカーがスタメンに返り咲く事になった。メルテザッカーはこの大会の16強、アルジェリア戦での試合を最後にスタメンを外れたが、それまでの出来が決して悪かった訳ではない。寧ろ例によっての安定感で十分にチームに貢献した。そして、この大会を最後にドイツ代表を引退した。
30歳とまだ余力を残しての代表引退だったが、W杯優勝を節目に世代交代も考慮した、代表選手としては理想的な引き際だったと言える。一方のクラブでは2016年にアーセナルのキャプテンに就任するなど活躍を続け2018年まで現役を続けた。引退は2016年に負傷した膝の負傷が決定的な要因だったとされる。
因みに、メルテザッカーはこの引退直前、サッカー界の異常なプレッシャーをSpiegel誌に独白し話題になった。とりわけ、2006年自国W杯で敗れた瞬間、落胆と同時に安堵した事を吐露している。このインタビューはメルテザッカーのプロサッカー選手としての本音がカミングアウトされた一方で、プロらしくない弱さを曝け出したものでもあり物議を醸した。
また、2014年W杯の16強アルジェリア戦直後、メルテザッカーはインタビューで不甲斐ない試合内容の説明を求められて完全に逆ギレした事がある。このインタビューはドイツで現在でもユーモアを交えて語り継がれるエピソードだ。
しかし、決してこれらのエピソードはメルテザッカーの名声を落とすものではない。寧ろ、自らの言葉を持ち、自らを表現できる、サッカーのみならず一般的な知的レベルも高い選手だという印象を私は持っている。実際にメルテザッカーは、プロサッカー選手にしては珍しくドイツの大学入学資格であるアビトゥアを取得している。
それどころかメルテザッカーは、インタビューによると元々プロサッカー選手になる夢など持っていなかった。というのも、周囲からそれだけの才能があるとみなされておらず、本人も当時からそれを自覚していたからだ。
しかし、若い頃からサッカーエリートでなかった事が逆にメルテザッカーの強みとなったのではないか。つまり自らの出来る事を自覚し、フェアに、賢く、堅実に、チームを第一にプレーし、ピッチを離れても模範的な振る舞いで信頼を得る選手という事だ。サッカーだけに特化したエリートが席巻する現在、メルテザッカーのような地に足を付けたチームプレーヤーがどれ程いるだろうか。
メルテザッカーは引退後はアーセナルのユースアカデミーのトップに就任し、後進の育成に携わっている。サッカーだけのエリートではなく、バランスの取れた教育の重要性を説いており、その指針に私は大いに賛同したい。