EURO2000で目も当てられないような惨敗を喫したドイツ代表であったが、その僅か2年後の日韓W杯で準優勝という望外の成功を収めることとなる。そして、そこに至るまでの過程で忘れてはならない重要な試合が存在する。それが2001年11月に行われた日韓W杯出場を賭けたウクライナとのプレーオフだ。この試合は、ドイツが史上初めてW杯予選敗退の崖っぷちに追い込まれた試合として現在でも記憶に残っている。
EURO2000終了後のドイツは2001年より当時躍進著しいレバークーゼンの監督であったクリストフ・ダウムが就任することに内定していたが、ダウムがコカインを摂取している事実が判明しこの契約は破棄されることになる。代わって監督の座に就任したのは1990年のW杯優勝メンバーの一人であるルディ・フェラーであった。当時フェラーは監督としてのライセンスを持っておらず正確には監督ではなく、チームシェフという肩書となった。
フェラーに率いられたドイツ代表は2002年W杯予選でイングランドという強敵と同組になりながらも最終2節を残して首位を維持し、ミュンヘンで行われるイングランド戦に引き分ければW杯に出場というところまで漕ぎつける。しかし、ここでドイツはイングランドにまさかの1-5という大敗を喫し、更に最終節の格下フィンランド戦でも引き分けるという失態を演じてしまう。この最終2節の不甲斐ない試合によりドイツの日韓W杯出場はプレーオフの結果に委ねられる事態となった。
そして、そのプレーオフの相手は当時世界最強のストライカー、ACミラン所属のシェフチェンコを擁するウクライナに決定した。このシェフチェンコの存在はドイツ国民を震え上がらせ、ドイツのプレーオフ敗退を予想する声も少なくなかった。或いは、地味でスター選手が全く存在しないドイツよりもシェフチェンコをW杯で見たいという世界のファンも多かっただろう。
一方のドイツは折しも攻撃の核であるダイスラー、ショルを怪我で欠き、更に守備でも屈強なストッパーであるヴェアンスを欠くという満身創痍でこのプレーオフに臨まざるを得なかった。ベッケンバウアーもドイツの敗退は”unvorstellbar”=「想像できない」が、”realistisch”=「現実にあり得る」と発言し、少なくとも試合前の状況から言えば、ドイツの史上初めてW杯の予選での敗退はかなり現実味を帯びていたと言えるだろう。
まさにドイツサッカーが崖っぷちに立たされた瞬間であり、選手たちは過去に経験したことが無いほどのプレッシャーを背負いながら試合に臨むことになった。
異様な雰囲気で開始されたキエフでの1stレグ、立ち上がりからドイツの選手に硬さが見える。いきなりウクライナ右サイドで縦パスのカットをハマンが空振りし、抜け出したボロベイがカーンと1対1になる大ピンチを迎える。これは幸運にもポストに当たり事なきを得たが、立ち上がりからホームのウクライナが攻勢をかける。
そして17分、ウクライナはゴール正面からのシェフチェンコのフリーキックが壁に当たりゴール前にこぼれたところをズボフが決めて早くも先制する。ドイツのW杯予選敗退が最も近づいた瞬間だった。しかし、ドイツは得意のフィジカルの強さを活かしながらじわじわと盛り返しセットプレーからチャンスを掴む。前半25分、立て続けに得た2度のコーナーキックからリンケとレーマーのヘディングがポストを叩く。
そして31分、右サイドのフリーキックからゴール前FWのツィックラーがヘディングでスライドしたボールをバラックが左足を伸ばしてゴールに押し込んだ。バラックはそれまで守備に奔走するのみだったが、ここ一番で極めて重要なアウェーゴールを決めた。
その僅か数分後、ドイツは最も恐れていたエースのシェフチェンコがカーンと1対1になる大ピンチを迎えるが、このシュートはカーンが左足先で驚異的なセーブを見せ切り抜けた。試合の行方を決定づける当時世界最高のストライカーと、世界最高のGKの対決である。
この後、秩序を取り戻したドイツは華麗さ、巧さは微塵も感じさせない得意の肉弾戦を展開し、ウクライナの攻撃を力でねじ伏せることに成功する。最終ラインのリンケ、ノヴォトニー、レーマーが得意のマンマークでウクライナの2トップを封じ込め、中盤の底はハマンを中心に右サイドをラメロウ、左サイドをツィーゲが激しい中盤の競り合いでウクライナを凌駕する。
特に最も警戒すべきシェフチェンコは状況によっては2人がかりで徹底的にマークしほぼ完全に試合から消す事に成功した。更に攻撃的MFバラック、シュナイダーも豊富な運動量で守備に奔走し、特にバラックの守備面における貢献度は極めて大きかったと言える。
攻撃に関してはまず2トップに決定力よりもフィジカルとスピード、守備力を優先したアサモアとツィックラーを起用した。そして、後半途中からツィックラーに替えてヤンカーを投入、完全な肉弾戦仕様に持って行った。
ドイツの攻撃の形はかなり限定されたが、得意の高いボールを多用することでウクライナに脅威を与え、主に右サイドからシュナイダーのクロス、セットプレーからのチャンスにバラックがフィニッシュに絡む形を徹底した。バラックは中央やや左サイドで攻撃のタクトを握りながら状況に応じてサイドにも飛び出しドイツの攻撃をけん引した。
ドイツは結局このままアウェーの1stレグを1-1の引き分けで終えることに成功し、雌雄を決するホームでの2ndレグでウクライナを無失点に抑えれば勝ち抜けが決まるという、若干ながら有利な条件を獲得することに成功した。そしてその4日後、ホームの大歓声が迎えるドルトムント、ヴェストファーレンスタジアムで2ndレグが行われた。
0-0の引き分けでも勝ち抜けが決まる状況だったが、ドイツはこの試合序盤から怒涛の攻撃を繰り出していく。そして開始早々の4分、ウクライナ守備のクリアミスを拾い右サイドを突破したシュナイダーはペナルティエリア中央に完璧なクロスを送り、これをバラックがド迫力のヘディングでウクライナゴールに突き刺した。
ウクライナに息つく暇を与えず攻めるドイツは11分、再びシュナイダーの右コーナーキックからレーマーがヘディングを放ち、GKが弾いたボールをこの日累積警告から解けてスタメンに復帰したノイビルが押し込み2点目、更に15分にはノイビルの左コーナーキックをレーマーがこれまたヘディングで決め3-0とし、試合をあっという間に決定づけた。ドイツは51分にもカウンターからノイビルのクロスをまたもやバラックがヘディングで決めて4-0とした。
ドイツは結局試合終了間際にシェフチェンコにゴールを許したが、4-1という誰も予想しなかった大差でプレーオフの勝ち抜けに成功し、各方面から喜びと安堵の混じったコメントが発せられた。ドイツのメンバーは過去最弱とも言われ、技術のある選手は皆無、自らが下手な事を自覚した徹底的な肉弾戦という古いドイツに原点回帰した戦術だったが、国民に絶大な人気を誇るルディ・フェラーは代表チームの好感度を上げる事に成功し、選手にも失っていた闘争心を蘇らせた。この功績は大きいと言えるだろう。
また、この2試合ダイスラー、ショル、ヴェアンスという主力を欠いたドイツの中心となったのは、このシーズンにおいてチャンピオンズリーグ決勝に進出するまで躍進したバイヤー・レバークーゼンのメンバーであるバラック、シュナイダー、ノヴォトニー、ラメロウ、ノイビルである。そして、その中心として存在したのは紛れもなく当時25歳のバラックであった。
バラックはこの試合、Kickerの採点で1という最高点を獲得し、このプレーオフ2試合通じて文句なしのMOMだったといえる。EURO2000のポルトガル戦で戦犯としてこき下ろされてから僅か2年後、バラックは紛れもなくドイツ代表の絶体絶命のピンチを救った救世主にまでなった。そして、この試合でドイツ代表は後々まで続く「戦術はバラック」を確立し、低迷期の中でも潮目を変えることに成功した。
更にこの試合でチームの中心にのし上がったバラックは翌年の日韓W杯でも3ゴール3アシストを記録し、スーパーセーブを連発したオリバー・カーンとともにドイツ準優勝の原動力となった。決勝以外の全ての試合で攻守の中心として先発出場したバラックは、とりわけ準々決勝のアメリカ戦、準決勝の韓国戦で勝利を決定づける貴重な得点を決めている。それだけに累積警告で決勝のブラジル戦に出場できなかったのは現在でも非常に惜しまれる。
2002年のW杯後もバラックの驚異的なヘディングと両足の強烈なキックによる得点は、その後数年ドイツ代表鉄板のゴールパターンとして定着した。年齢を経るとその得点力こそ陰りが見えたものの、その絶対的なリーダーシップとチームの頭脳としての戦略的な能力に磨きをかけてチームの中心に留まり続け、その中でも必ずと言って良いほど重要な試合で貴重なゴールを決めてきた。このバラック中心のチーム作りは2010年、直前の怪我で南アフリカW杯を欠場するまで続くことになる。
そういう意味で、この2002年W杯プレーオフのウクライナ戦はその後数年のドイツサッカーを形づける一つの重要な転換点となった試合といっても過言ではないかもしれない。そして、この試合で大仕事をやってのけたバラックがその後数年ドイツサッカーに果たしてきた役割はとてつもなく大きかった。それだけにバラックが2010年、自らの地位にしがみ付くために現監督のレーヴと醜い権力闘争を繰り広げ、現在、国民に愛される真のレジェンドになり切れていないのは個人的には極めて残念なことだと言わざるを得ない。