ミヒャエル・バラックとヨアヒム・レーヴの浅からぬ因縁

ネーションズリーグでオランダによもやの惨敗を喫し、ヨアヒム・レーヴの進退問題が再燃するのは必至の情勢であるが、既にこのオランダ戦の直前にレーヴ進退問題にコメントし、世間に物議を醸した人物が存在する。それは他でもないドイツ代表元キャプテン、ミヒャエル・バラックだ。バラックは現在サッカー界の表舞台からは退いているが、レーヴのチームマネジメントを批判、ロシアW杯後に退任すべきだったとメディアを通じて主張し、再びその存在がクローズアップされている。

バラックは00年代のドイツ代表では突出した実力を持った選手であるだけでなく、当時からその歯に衣着せぬ発言でレーヴと激しい権力闘争を繰り広げたことで有名だ。以前、ヨアヒム・レーヴに干された実力者たちを紹介した事があるが、このバラックも思わぬ形でレーヴによって代表を干された実力者の一人である。つまり、このバラックとレーヴは2人が監督と選手の関係だった頃から浅からぬ因縁がある。

しかし、バラックが選手時代に最初に監督のレーヴに噛みついたのは自らの処遇についてではない。チームメイトであり、長年のパートナーでもあるトルステン・フリングスの処遇についてである。フリングスはバラックと同じ1976年生まれのMFであり、バラックと共にドイツの低迷期を支えた選手の一人だ。

両者とも攻守にオールラウンドな能力を備えたMFであり、ライバルともなりうる存在でもあったが、この2人で構成するダブルボランチは2004から2008年にわたりドイツの心臓として機能した。つまりバラックが主に司令塔としてチームをコントロール、更には前線に飛び出して得点を狙うのに対し、フリングスが豊富な運動量と激しいタックルで相手の攻撃の芽を摘むという役割分担だ。この2人はメディアでの振る舞いからして一筋縄ではいかない気難しいタイプに見えたが、性格的にもウマが合ったのか強固なパートナーシップがあったと見える。

しかし、2008年にはフリングスも遂に寄る年波、そしてサッカーの高速化について行けずスタメン座を若手に明け渡すことになる。元々それ程スピードのあるタイプではなく、同じくベテランの域に達しているバラックとの併用は厳しいのは明らかだった。しかし、このフリングスの処遇に異議を唱えたのが、選手のボスとして絶大な発言力を持つバラックだった。

フリングスは2008年のW杯予選ロシア戦の前日の深夜にレーヴから試合で起用しない旨を伝えられたとされ、フリングスはこれに明らかな不満の意を示したとされる。バラックもフリングスが主力から外されることはアンフェアであり、チームに貢献してきたベテランに対しては敬意をもって対応するべきだとして、公にレーヴを批判した。しかし、この越権行為とも言える発言には当然レーヴは激怒し、バラックに謝罪を求める事態に発展した。

この件は、ベッケンバウアーや当時のDFBのボスであるツヴァンツイガー、レジェンドであるマテウス、ザマーなどが割って入る大騒動に発展し、何れもバラックの発言を痛烈に批判した。更に前監督のクリンスマンもチームメイトとレーヴに謝罪するべきとして、バラックは四面楚歌の状況に追い込まれた。

明らかに劣勢に追い込まれたバラックは自らの発言が誤っていたことを認め、レーヴに謝罪した。両者は和解のため数日後に直接会い、そこでバラックは引き続きレーヴによって代表のキャプテンの座に留まる事を認められた。但し、キャプテンであっても組織のルールを順守しなければならないとクギを刺されたとされる。これが対立の第1幕だ。

そして第2幕は2010年南アフリカW杯後のバラック自身の処遇がテーマとなった。例の如く絶対的な中心として参加する筈だったこの大会、バラックは直前の負傷で欠場せざるを得なくなった。しかし、バラック抜きの若手中心のチームは予想外の躍進を遂げ、代理キャプテンであるラームはそのままキャプテンに留まりたいと発言した。

若手中心でも十分世界に通用する事が分かった以上、既に34歳となったバラックの時代がこれで終わりを告げたのは誰の目から見ても明らかだった。本来ならこのタイミングでバラックが自らの口で代表引退を表明するのが、最も丸く収まる解決だったであろう。

しかし、バラックはこのラームの発言は極めてアンフェアであると反論し、今後も代表のキャプテンに固執する姿勢を見せた。バラックは議論の余地なく長年ドイツ唯一のワールドクラスでありながら、国際的なタイトルは一度も掴んでいない。何としてでも代表に残り、タイトルを勝ち取るチャンスをもう一度得たいと考えていた筈だ。

この件に関して決定権のある監督のレーヴは、バラックは引き続きドイツの代表のキャプテンであるとしながらも、代表には招集しないという極めて政治的な態度を取った。バラックのドイツサッカーに対する貢献度を考えれば、確かに当時の状況で戦力外を通告すれば、本人の反発はもとより、バラックに対する敬意を欠いているとして世間の反発を招くのは明らかだったからだ。つまり、バラックが自らの口で引退を口にするか、レーヴがバラックに構想外を通告しても世間に波風立たない時期まで待つという魂胆だ。

バラックはこのレーヴの煮え切らない態度に苛立ちを隠さなかった。しかし、34歳となったバラックのパフォーマンスは著しくなく、復帰したレヴァークーゼンでも怪我がちでベンチを温める機会が多くなり、バラックの代表復帰はもはや考えられない状況になった。

そして2011年6月、遂にレーヴからバラックの構想外が発表された。これは既に前にレーヴがバラックと合意した上での発表とされ、円満解決が強調された内容となった。また、レーヴは長年の功労者であるバラックに栄誉ある引き際を用意すべく、2ヶ月後に行われるブラジルとの親善試合をバラックの引退試合としたいとオファーを出した。

しかし、バラックはこのレーヴの発表が事実と異なるとして反論し、引退試合のオファーも断った。バラックに言わせれば、レーヴはバラックの代表復帰に希望をもたせる発言をしており、代表引退はバラック自らの口から行う予定だったとの事だった。更に引退試合については、既に以前から予定していた親善試合を自らの引退試合に仕立てることは茶番であるとの理由で、このオファーを断った。これで2人の亀裂は決定的となり、バラックはこの一連の出来事を今でも根に持っている。

ただ結局のところ、いずれの主張が事実だろうがバラックがドイツ代表を引退するという結果には変わりがなく、何故そこまでバラックがレーヴに噛み付くのか理解に苦しむ部分もある。これおそらくレーヴの過度に戦略的、政治的な態度や発言に加え、一方のバラックの頑固さ、プライドの高さ、そしてその選手として稀に見る絶大な権力が不幸かつ醜い争いに発展したと言えるだろう。

しかし、バラックに関して言えば、低迷期のドイツサッカーを支えた偉大な選手でありながら、その引き際は余りにも不運であり、不幸なものだった事は間違いない。例えその反論が世論を無視した傲慢かつ自己中心的であったとしても、そのキャリアは同情して余りあるものだと言っておきたい。

一方のレーヴも当時は極めて難しい人間マネジメントを要求された。バラックが納得していない以上、最善の解決ではなかったかもしれないが、十分理解に値する処置を施したと言っておきたい。また、その後2014年のW杯制覇もレーヴの手腕無くしては考えらなかった。

しかし、皮肉な事にヨアヒム・レーヴがドイツ代表監督して最大のピンチに陥っている現在、最も必要とされているのは真のチームリーダー、他ならぬ当時のミヒャエル・バラックような存在だろう。最悪のチーム状態で迎える9月16日のフランス戦は、おそらくレーヴのドイツ代表監督としての進退をかけた試合になる。ヨアヒム・レーヴという一つの時代が終焉を迎えるのも、そう遠い日ではないだろう。