最近メディアに登場する“Deutsche Leitkultur”とは何か

内相のトーマス・デメジエールが先日ドイツのタブロイド新聞Bildに”Deutsche Leitkultur”の10か条を特別寄稿し世間に物議を醸している。”Deutsche Leitkultur”という言葉の定義は相当議論されているが、これは私が変な説明をするよりも、デメジエールの主張を見た方がピンとくるだろう。原文を書くと長くなるので、私が大まかに理解した範囲を要約して日本語で記す。

  1. ドイツの社会は開かれた社会であり、顔を見せる。我々は名を名乗り、挨拶には握手をする。我々はブルカではない。
  2. ドイツの教育とは仕事に必要なことだけを学ぶのではなく、一般的な教養にこそ価値を置いている。
  3. ドイツはあらゆる分野で成果を求め、それは豊かさをもたらす。その考えこそが我々の国を強くしている。
  4. ドイツの伝統とは、国の統一と成長、周辺国との平和と自由への取り組み、過去の過ちとも向き合うこと。それにはイスラエルの存続権に対する特別な関わりも含まれる。
  5. ドイツは文化の国であり、ゲーテやバッハをはじめ世界に大きな影響を与えて来た。当然我々の社会で文化は重要な意味を持つ。
  6. ドイツは中立な世界観を持ったキリスト教の国で、宗教的に平和に暮らしている。その大前提は法が宗教上のルールより絶対的に優先されることである。
  7. ドイツでは政治的な問題解決において相手に敬意と寛容さを払い妥協点を見つけることを基本とする。多数決原理には少数派の保護も含まれる。暴力はデモであろうとどんな立場であろうと社会的に許容されない。
  8. ドイツ人は啓蒙された愛国主義者である。啓蒙された愛国主義は他国を憎むことはない。
  9. ドイツは文化的、精神的、政治的に西側諸国の一部である。NATOは我々の自由を守っている。
  10. ドイツには皆が共有できる場所や記憶、祭事や伝統がある。これらは我々の国を特徴づけている。

これを読む限り多分”Deutsche Leitkultur”とは、ドイツという国とは、ドイツ人とは何か、どうあるべきかと言う事を意味しているものだと想像がつく。この言葉は保守系の政治家が利用するが、リベラル系からは忌み嫌われている言葉らしい。多文化主義を否定したナショナリズムを連想させるからだと思われる。

特にこの”Wir sind nicht Burka”=「我々はブルカではない」という言葉からは明らかにイスラム系移民を意識しており、察するに移民はドイツにおいてこの”Deutsche Leitkultur”の価値観に従って振る舞うべきだという意味が込められている。

そして、例によってこのデメジエールの提唱にはリベラル系政治家やメディアから非難が殺到している。要するにこの提唱はデメジエールが考えるドイツ社会における「暗黙のルール」であり、実際何の法的根拠に基づいたものではない。そんなものを移民に強制するのは差別だと言うんだろう。

ただ、私から言わせれば、このデメジエールの主張はリベラルなドイツ人の立場から言えば難癖つけたくなるものかもしれないが、敢えて彼が暗黙のルールを記述したのは我々外国人にとっては参考になる。寧ろ私にとっては差別ではなく、社会に適応するための助けだと解釈する。たとえ強制されなくても、こういったドイツ的なことを意識して振る舞うことは外国人として当然だと認識している。