ドイツの保守系の若手政治家であるイェンス・シュパーンが以下のようの発言をしてちょっとした物議を醸した。
Mir geht es zunehmend auf den Zwirn, dass in manchen Berliner Restaurants die Bedienung nur Englisch spricht. Auf so eine Schnapsidee käme in Paris sicher niemand.
ベルリンの幾つかのレストランではサービスが英語しか話さないことに私はだんだんイライラしてきている。そんな馬鹿げたアイデアはパリでは確実に誰も思いつかないだろう。
すぐに反対派の政治家がこの発言をツィッターなどで批判したが、ネットでざっと全体のフォーラムなどを見る限りシュパーンに同意する意見の方が多い。シュパーンはCDUではメルケルの後釜になるのではと言われており、ドイツではそこそこ有名だ。大柄な体格で四角い顔という如何にもドイツ人ぽい風貌で、ホモセクシャルでもある。これも言われてみれば「やっぱり」と思わせる顔をしている。
それはさておき、ベルリンではドイツ人でも英語で話しかけられるとは噂には聞いていたが、どうやら本当らしい。このシュパーンのように、ドイツなのに英語で話しかけられて不快になったと言うのは彼に限った話ではない。
とあるベルリンの新聞にもフランスレストランに朝食を取りに行ったところ。いきなり”Hello, how are you”? と挨拶され、更に4人のサービスが全員英語しか話さず非常に不快に感じたいう記事がある。シュパーンもベルリンの新聞記事を書いたライターも、その教育レベルから言って英語ができると思って間違いない。ドイツ人の殆どは余程年寄りでない限り、レストランで話す英語くらい理解できるし話せる。
私も仮にドイツでいきなり英語で話しかけられたら、レストランでの会話くらいなら何とかなるが、ちょっと戸惑う。普通はドイツ語で話しかけられるし、空港などでもまずは”english or german”?と聞かれるか、あるいは私が”Hallo”と言えば、そのアクセントですぐにドイツ語を話してくれる。まあ私の場合は見た目からしてドイツ人ではないから、英語で話しかけるのも別に不思議ではないかもしれない。
しかし、もしも私が仮に日本の観光地でレストランのサービスにいきなり外国語で話しかけられれば、極めて不快になるだろう。そう言う訳で、ドイツ人がドイツでいきなり英語で話しかけられて不快になるのは私には理解できる。それは著しく不自然だ。
このシュパーンの言い分に対して、ベルリンは国際的な都市に発展しつつあるから、そんなことを気にするのはおかしいという意見がある。しかし、そもそも単にどこでもかしこでも英語を話せば国際的であるという考え方が傲慢甚だしい。何故なら、ドイツには山ほど外国人が滞在し、アラブ語やらトルコ語やらが氾濫しドイツ語が蔑ろにされている地域があり、これらの外国人に対しドイツ人はドイツ語を話せと主張する。当然だ。彼らはドイツの社会に受け入れてもらう為にドイツ語を話す必要がある。
しかし、これが英語になるとグローバルやら国際的だと手のひら返しで褒めちぎるのは、そんな態度は私にはちっとも国際的でも先進的でもない。寧ろ差別的で傲慢だ。もちろん、誰も英語を話すなとかは言っていない。必要ならば話せば良い。しかし、だからと言って観光客に合わせて誰でも見境なく英語で話しかけるのは、自国の文化や人々を軽視しており、決して褒められた態度ではないだろう。
シュパーンがこのタイミングで一見すると些細とも思える事に噛み付いたのは、9月に行われる総選挙での票集めだという批判もある。確かにそれもあるかもしれない。しかし、自国の言語を蔑ろにすることは長いスパンで見た場合、自国の文化も衰退させるとう深刻な問題を引き起こす為、決して些細な事とは言い切れない。
ゲーテやルターが現在でも偉大なのは、ドイツ語の発展に寄与したからだ。彼らの書物はドイツ人の精神活動に大きな影響を及ぼし、今のドイツ人やドイツ民族を形付ける基礎となったと言っても過言ではない。それに伴って自国の独自の文化や産業も発達した。ドイツでドイツ語を蔑ろにすることは、それらを否定し、ドイツという国の独自性を失わせる事になる。英語は世界でも最も通じる便利な言葉である事に疑いの余地は無い。しかし、自分たちの故郷を守りたいと思うなら、それで母国語を駆逐しても良いなどと考えるべきではないだろう。