ドイツサッカーのガラスの天才と言えば、セバスティアン・ダイスラー

日本のメディアでは、類い稀な才能がありながら度重なる怪我で力を発揮できない海外のサッカー選手をしばしば「ガラスの天才」と呼んでいるのをよく見かける。最近のドイツで言えばマルコ・ロイスのような選手だ。確かにロイスは世界でも屈指のアタッカーで天才的な能力を持った選手で、怪我が多くガラスのように壊れやすいと言うのは的を射ているかもしれない。

しかし、私の中で「ガラスの天才」と言えば、セバスティアン・ダイスラーをおいて他にいない。数年前の記事だったが、最近彼のインタビューを読んで彼の事を思い出した。

ダイスラーが台頭してきたの1999年であり、この時若干19歳だった。ドイツサッカーがまさに暗黒時代に突入した頃である。今でこそこの低迷期を支えたのはミヒャエル・バラックである事に議論の余地は無いが、当初ドイツの救世主になると国民の期待を一身に背負っていたのは紛れもなくダイスラーだった。

それどころかダイスラーは100年に1人の天才と迄言われ、当時の新聞記事を読めばその期待の大きさがわかる。当時ドイツに欠けているとされた高い技術と豊富なアイデアを持った選手だったからだ。若干21歳でユーロ2000にもドイツ代表として出場しており、出場時間を見ればほぼ主力選手に近い位置付けだっと言える。のちに絶対的なリーダーとなるバラックはこの頃は控え選手に過ぎなかった。

しかし、ダイスラーのキャリアは順風満帆とはいかなかった。とりわけ度重なる右膝の怪我はダイスラーのキャリアを停滞させただけでなく、精神的にも大きくネガテイブに作用した。2001年の秋には右膝に重傷を負い、バラックとのダブル司令塔として出場が期待された2002年のW杯は欠場することになる。

更にこの年移籍したFCバイエルンでも最初の8か月間全くプレー出来なかった。怪我が癒えて復帰したのもつかの間、2003年の秋にはうつ病を患ってしまい2004年のユーロも欠場した。

クリニックから退院したのち2004年の5月にダイスラーは実戦に復帰し、8月には新監督のクリンスマンから再びドイツ代表にも招集されるようになった。しかし、2006年のW杯を目の前にして再び右に重傷を負ってしまい、またもやW杯を欠場する羽目になる。2007年の1月、若干27歳にしてダイスラーはFCバイエルンのキャンプ先であるドバイで突然プロサッカー選手からの引退を発表した。

私がダイスラーのプレーを見るようになったのは2003年以降であり、この頃は代表でもFCバイエルンでも既にバラックが中央で司令塔として絶対的な地位を築いていた。全盛期が過ぎたダイスラーは専ら右サイドの攻撃的な位置に起用され、主に精度の高いキックでチームに貢献した。

プレースタイルとしては、デビッド・ベッカムにスピードが加わり、より攻撃的にしたようなタイプだったという記憶がある。本人は中央でのプレーを好んでいた模様で調子の良い時は中に入って行く事もあったが、私にはあくまでサイドの選手という印象がある。

しかし、2006年のW杯前にはダイスラーはかなり復調してきており、クラブでも移籍が濃厚とされたバラックの後釜になる司令塔と目されていただけに27歳での引退は非常に惜しまれると言える。年齢的にも2008年のユーロ、2010年のW杯に攻撃の核として出場する事は十分可能だった。

ダイスラーにとって不運だったのは、その怪我の多さ、タイミングの悪さも勿論だが、なんと言っても活躍した時代が悪すぎた事だろう。当時ドイツにはGKを除けば国際的なレベルにある選手が誰一人として居らず、ダイスラーは若くしてドイツサッカーの救世主として祭り上げられ、余りにも過大な期待をかけられ過ぎた。まだ何も成し遂げていない20歳にとって重荷になったのは間違いない。

更に、インタビューを読む限りダイスラーは非常に純粋で朴訥な若者で、巨大なショービジネスでもあるサッカー界に馴染めなかった。サッカー界のスターとして振る舞うことに完全に困惑し、苦悩を抱えた事がわかる。また、ダイスラーは15歳という人間的な基礎が出来ていないうちに親元を離れてプロになった事が早過ぎたとしている。何れにせよサッカー界で生き残るにはあまりにも純粋で、繊細な人間だったのであろう。

一方でダイスラー程のサッカーの才能が無くとも、図太い神経を持ち、より地に足をつけて着実にキャリアアップしたバラックは大成した。国やスポーツの種類を問わず、才能のある若手選手を育てる上でこれらの例から学ぶべき事は多いだろう。