代表を追放された真のワールドクラス、シュテファン・エッフェンベルク

1998年ドイツ代表はW杯ベスト8でクロアチアに敗退し、世界の強豪国から転落した。その2年後のEUROではグループリーグ敗退し、その翌年のW杯予選ではあわや予選敗退まで追い込まれる程低迷した。その一方でこの時期クラブレベルではFCバイエルンが軒並みCLで上位に進出し、2001年には遂に悲願の優勝を果たすという相反の現象が起きている。

もちろん、代表とクラブを同じ理屈で論じる事はできない。しかし、当時のFCバイエルンにあってドイツ代表に無かったものの一つに、シュテファン・エッフェンベルクと言う当代屈指のドイツ人司令塔の存在が挙げられる。1968年生まれのエッフェンベルクは1998年から2002年までFCバイエルンに所属し、キャプテンとして黄金時代を築いたと言っても過言ではない。

そのエッフェンベルクのプレースタイルであるが、まさに王道の司令塔にふさわしい、長短の精度の高いパスでゲームメイキングをするセントラルMFだったと言える。現在のドイツ人選手で言えば、トニ・クロースを彷彿とさせる。

もっとも、エッフェンベルクはクロース程のパス・マシーンではなく、188cm屈強な体格と豊富な運動量で後方で守備もこなし、ゴール前にも顔を出すBox to Boxと呼ばれる選手の特徴も兼ね備えた選手だった。更にはチームのキャプテン、アグレッシブなプレースタイルでチームを引っ張る絶対的なリーダーでもあり、その意味では寧ろミヒャエル・バラックに近いタイプだと言える。事実エッフェンベルクが2002年に退団した後、その後継者という形でバラックがFCバイエルンに移籍した。

この両者の能力は甲乙つけ難いものがあり、得点力ならバラックが上だろうが、司令塔としての能力ならばエッフェンベルクが上だろう。決してスター軍団ではないチームメイトを操り、バイエルンの黄金期を築いた実力はまさに当時のドイツサッカー真のワールドクラスである。ただエッフェンベルクはあくまでドイツ代表とは縁がなかった。

正確に言えば、エッフェンベルクは1994年W杯まではドイツ代表の主力だった。1991年に22歳で代表デビューを飾り、翌年のEURO1992は23歳ながら主に中盤で殆どの試合で先発出場している。当時のドイツ代表は1990年にW杯を優勝し、中盤にはメラー、ヘスラー、ザマーなどの優秀な選手が軒並み揃う中で、エッフェンベルクは若くして代表の主力選手としての地位を確立した。まさに将来のドイツ代表を背負って立つべき存在でもあった。

そして迎えた1994年W杯、この大会のエッフェンベルクは3-5-2システムの右ウィングバックでのファーストチョイスだった。ベテラン偏重と言われたチームの中で数少ない中堅選手でもある。しかし事件はグループリーグの第3戦、韓国戦で起こる。

この試合前半に3点を先制して楽勝ムードのドイツだったが、後半になるとピッチレベルで50°Cとまで言われるダラスの暑さに完全にバテてしまい韓国の猛攻を浴びる事になる。この試合は私も日本でテレビで観戦していたが、本当に逆転されるのではないかと思うくらい一方的に攻め込まれた。

その中でも特に出来の悪かったエッフェンベルクに対し、不満のドイツサポーターは「エッフェンベルク出て行け」と罵しったとされる。そしてこれに完全にぶち切れたエッフェンベルクは中指を突き立てて反応すると言う愚劣極まりない行為を犯してしまう。

これはカメラもビデオも見えない場所でされた行為であるが、これを聞き知った当時のDFB会長であるブラウンは激怒し、ブラウンは監督のフォクツと話し合った結果、エッフェンベルクをチームから外すことを決定した。

これには多くのチームメイトも猛反対したらしく、監督のフォクツもエッフェンベルクの離脱には当初反対の意向を示したとされる。後のインタビューでエッフェンベルクは当時DFBが自らを庇ってくれる事を期待していたそうだ。確かに気温50°Cのピッチで走り回っている中「出て行け」などと味方のサポーターに罵られれば、それは同情に値する。

しかし、結局はフォクツも翌日の記者会見で「自らが監督の間はエッフェンベルクを今後代表に呼ぶことは無い」と事実上の追放宣言を行った。詰まるところ、このような方針をわざわざ大袈裟に記者会見で述べたのは、フォクツもエッフェンベルクの素行の悪さに手を焼いていたことは間違いない。

事実エッフェンベルクはチーム離脱後も近くのホテルでバーベキューパーティーを催し、更にその場でマスコミにチームに対してネガティブなコメントを残すなどチーム離脱後も物議を醸した。何れにしても、エッフェンベルクの代表としてのキャリアは事実上これで終わった。並の良い選手ならば、これで埋もれていってしまう所だろう。

ところが、エッフェンベルクはその1994年、セリエAのフィオレンティーナからブンデスリーガのボルシアMGへ帰還すると瞬く間にその存在感を発揮する。チームはそのシーズンでブンデスリーガ5位となりDFBカップにも優勝、翌シーズンもブンデスリーガ4位に食い込む躍進を見せた。1998年にはチームは降格争いとなるが、エッフェンベルクへの評価は高く、29歳にして再びFCバイエルンからオファーが届き、エッフェンベルクはこれを承諾した。

エッフェンベルクは既に1990年から2年間FCバイエルンでプレーしており、復帰という形となった。ここからは既に記した通り、エッフェンベルクはキャプテンとしてチームの黄金期を築く事になる。キャリアを振り返っても、選手として最も充実した時期だった事は間違いない。

一方のドイツ代表はエッフェンベルクを追放した1994年W杯でベスト8でブルガリアにまさかの敗戦を喫し2年後のEURO96では何とか優勝したものの、その2年後のフランスW杯は再びベスト8でクロアチアに惨敗した。エッフェンベルクが再評価されたのとは正反対に、ドイツ代表は坂道を転がり落ちるように低迷期に入った。

そしてこの惨敗したフランスW杯の直後の親善試合、未だ監督の座に踏み止まっているフォクツは遂にエッフェンベルクを代表に再び招集した。4年前に「二度と呼ばない」という宣言を自ら覆す形になったが、それだけドイツの人材不足は深刻だったと言える。あの物議を醸した追放事件から4年、エッフェンベルクはその実力で下克上を果たし代表へ復帰した。

しかしエッフェンベルクはこの親善試合を最後に招集を拒否し、ドイツ代表でプレーする事はなかった。その理由は定かでは無いが、やはり年齢的なもの、あるいは成功の見込みの少ないドイツ代表で再び叩かれるよりも、クラブで集中した方が得策だと判断したのではないか。EURO2000惨敗の後に就任した監督ルディ・フェラーもエッフェンベルクの代表復帰を熱望したが、これも叶わなかった。

エッフェンベルクは2002年にFCバイエルンを退団し、最終的にはカタールでそのキャリアを終えた。チャンピオンズリーグ優勝という輝かしい実績の一方で、ブンデスリーガで最も多くのイエローカードを貰った選手でもある。また、2002年には国内の失業者を軽蔑する発言で痛烈な非難を浴び、警察の保護を受ける事態にまで発展するなど相変わらず世間を騒がせた。

引退後は2部のパダボーンの監督を務めたが、これもその素行が原因で解任されている。一方で、さまざまなテレビ局で解説者を務め、更には金融業のビジネスにも関わるなど、多才な一面も覗かせている。その行き過ぎた攻撃的な性格が仇となる一方で、リーダーの資質を持った非常に頭の良い人物である事は確かだろう。その風貌とアグレッシブさからドイツでは”Tiger”「虎」という愛称が定着している。

そして、このエッフェンベルク程の実力の持ち主が、1994年以降ドイツ代表として国際舞台に姿を見せる事がなかったのは、非常にドイツサッカーにとって惜しまれる事である事は間違いない。確かにエッフェンベルクは当時大きなミスをした。それはエッフェンベルク自身も認めている。

しかし、同様の行為でも、おそらく現在ならば代表追放までにはならないだろう。代表選手とは言え、25歳の若者である。詰まるところ、この猛獣エッフェンベルクを使いこなせたFCバイエルンに対し、ドイツ代表はサジを投げてしまったと言う事だろう。もしもエッフェンベルクが居たならば、少なくともEURO2000であれ程の醜態を見せ、惨敗する事は無かったかもしれない。