おそらく、トルステン・フリングスの知名度は世界的に高くない。そのプレースタイルが地味だった上に、そのキャリアの大部分をヴェルダー・ブレーメンという中堅クラブで過ごしたのが理由だろう。もちろん、フリングスが活躍した当時のドイツサッカーが低迷期にの真っ只中にあり、バラック以外の選手の知名度は軒並み低かった。
しかし、フリングスは当時のブンデスリーガでは屈指のプレーヤーであり、当時のブレーメンがチャンピオンズリーグの常連だったのは、このフリングスの力に依る所が非常に大きかった。また、ドイツ代表ではバラックに次ぐ重要な選手としての地位を不動のものにしており、ドイツ低迷期を支えた極めて重要な選手である事に議論の余地はない。そのキャリア及び選手としての印象を紹介したい。
1976年生まれのフリングスはFWとしてプロサッカー選手のキャリアをスタートしたが、1999年よりブレーメンの監督となったトーマス・シャーフにより守備的MFにコンバートされて以降頭角を現した。2002年にはドイツ代表として日韓W杯にも全試合スタメン出場している。この時は3-5-2システムの右WBで出場しており、非常に堅実なプレーを見せた。また、決勝戦は欠場したバラックの穴を埋める形でセントラルMFで出場している。
この後フリングスはドイツ屈指の守備的MFの地位を不動のものとし、ドイツ代表においてはバラックと共にドイツの中盤を支える欠かせない戦力となった。その無尽蔵なスタミナと、相手の攻撃の芽を摘む激しいタックルに加え、場合によっては攻撃的MFやサイドバックをこなすなどのユーティリティ性を見せた。派手さはないが、効果的な仕事をするプレースタイルを地で行くタイプに選手だった。
私の中でのフリングスのベストマッチは2006年ドイツW杯の準々決勝、アルゼンチン戦だ。この試合、フリングスはどこに居るのかわからないくらいボールに絡む事は少なかったが、守備的MFとして相手のエース、リケルメを完全に試合から消した。そして、最終的にドイツは計算づくのPK戦に持ち込み勝利を得る事になる。
この試合、アルゼンチン監督のペケルマンは1点リードの72分でリケルメを早くも外し、このリードを守り切るというおよそ不可解な戦術に出た。最終的に敗れたともあってこの交代は非常に批判されていたが、逆に言えばフリングスがリケルメを交代に追い込んだとも言える。まさに黒子として最高の仕事だった。
しかし、フリングスはこの試合終了後、アルゼンチン選手との小競り合いに巻き込まれ、この際に暴力行為があったとして次戦のイタリア戦を出場停止となってしまう。そしてそのイタリア戦、フリングスを欠いたドイツはバラックが守備に奔走する事になり、最終的に地力の差を見せられて敗れ去った。
現在でもこの試合に敗れたのは、フリングスが出場停止だったからだとも言われている。これには多分の負け惜しみも含まれているのは間違いないが、もしもフリングスが出場していたならバラックの負担が軽減され、ドイツはイタリアの守備陣を脅かす事ができたかもしれない。それだけ、当時のドイツにとってフリングスの存在は重要だった。
更にフリングスは2007年にイタリアの名門ユヴェントスから熱烈なオファーを受け取り、30歳にして海外移籍が取り沙汰された。しかし、最終的にフリングスはこのオファーを断り、2011年までヴェルダー・ブレーメンでプレーした。
実際にフリングスはビッグクラブでプレーできる実力を備えた選手であり、2004/2005シーズンはFCバイエルンへ移籍している。しかし、FCバイエルンの水はフリングスに合わず、1年で古巣のブレーメンに戻った。当時のFCバイエルン監督、フェリックス・マガトはフリングスを攻撃的或いは左右のMFで起用し、本来のポジションである中盤の底では起用しなかった。これにフリングスは大きな不満があった。
それに加えて、フリングスは性格的にビッグクラブ向きの選手ではなく、FCバイエルンでは「移籍初日から一度たりとも居心地が良かった事はない」とぶち撒けた。スター然とした派手な振る舞いを好まず、地味にサッカーに集中したいタイプの選手だった事が窺える。一方で、思った事ははっきりと口に出す性格でも知られていた。
ドイツ代表では2006年以降も主力としてヨアヒム・レーヴに重用されていたが、2008年秋のW杯予選の最中に夜中に呼び出され事実上の構想外を伝えられたとされる。これにフリングスは不満を露わにしレーヴを痛烈に批判した。この騒動にはバラックも参戦し、フリングスを擁護する立場をとった。しかし、当然ながらレーヴの決定は覆らず、フリングスは翌年2月のテストマッチを最後に代表に召集されなくなった。
当時フリングスはクラブで依然として活躍している上にチームの重鎮であり、確かに切るのが難しい選手ではあった。しかし、ベテランとなったフリングスのスピード不足は明らかで、同じくベテランとなったチームの大黒柱であるバラックとの併用はもはや不可能だった。
また、監督のヨアヒム・レーヴはテクニック、クリエィティブさに優れた選手を好む傾向にあり、この点においてフリングスは決して秀でた選手ではなく、優秀な若手も台頭しつつあった。世代交代から言っても、ここがフリングスにとって潮時だったと言える。一方の同世代のベテランだったバラックはフリングスよりも一回り大きなスケール、才能を持った選手であり、圧倒的なリーダーシップも兼ね備え、依然としてチームの中心に据えられた。
フリングスは2013年にカナダでプロサッカー選手としてのキャリアを終えたのち、監督としてのキャリアをスタートさせており、2017年1月にはブンデスリーガで低迷するダルムシュタット98の監督に就任した。しかし、同年12月には解任されており、現在はプロサッカー界からは離れている。